サイトトップへ 体験記トップへ mail to Jimbo 2002.10.09.


移籍への道 (前編)
〜まず、今オフにあった様々な出来事から紹介します

 いよいよJの季節=米国のバスケットボールシーズンがやって参りました! 一時は日本に完全帰国も考えていたのですが、やはり終わりにすることはできず、再びアメリカにやって来ました。しかし、日本に戻っていた半年の間にも想像し得なかった出来事が多々あり、とても楽しく充実した生活を送ることができたのです。そこで今回は、まずオフの間に日本で起こった様々な出来事を絡めて、移籍までの道のりを紹介したいと思います。また、果たしてこの話の最後に、Jは再びアメリカでプレーするチャンスを手にできたのか?!?!

 まず、昨シーズンレイクショアでD1昇格を果たしましたが結果は惨敗。シーズン後半にその原因について、ボスのスコットと話し合いましたが、彼いわく「レイクショアは財団の一プログラムとしてチームを運営しているので、他のD1チームのようにお金で選手を引き抜くことはできない」との答えが返って来たのです。そして、「田舎のクラブチームとして出来るのは、やはりD2が限界かも・・・」と。 話は良く理解できました。が、Jは全てを掛けてアメリカまで来ているわけで、勝つこと、常に上を目指すチームであること、そして何よりD1でなければ意味がないことを説明して、先シーズン限りでチームから去ることを伝えました。

 2002年3月末に一時帰国したあとは、シーズン途中で悪くした腰と肘の療養も兼ねて、しばらくゆっくりしておりました。良く言えば「療養生活」、悪く言えば「プー太郎生活」の期間です。(笑) そして、風呂屋のキャプテンである哲さんにお世話になりながら、風呂屋での活動を展開したのです。そんなある日、オーエックスの本社で営業部長のO氏と色々な話をする機会があり、再びアメリカに戻りたいという、Jの我がままを許してもらえるのであれば、是非オーエックスで働きたいという話になったのです。社内会議の結果?晴れてオーエックスの社員に迎えていただくことになり、3ヶ月に及んだ長いプー太・・・、いや療養生活にも終止符を打つことになったのです。

 入社数日後に社長より命ぜられた仕事は、「とりあえず九州を回ってこい!」でした。それから数日後には九州へと向かったのでした。また、それ以降も南は九州の熊本から北は北海道の旭川まで全国のチーム練習の会場に営業を兼ねて寄らせていただきました。はっきりと覚えてないんですが、全国約25ヶ所で延べ300人くらいの選手と一緒に練習をさせていただきました。その際どこに行っても大変親切にしていただき、そのほとんどが、練習後にチームの皆さんと夕飯(飲み会?)をご一緒させていただいたのでした。中には自宅に泊めていただき、朝まで飲みながらバスケの話で盛り上がったことも度々あり、「何とも楽しくて充実した仕事を得られたものだ!」と思ったものです。しかし、そのお陰で毎日のように大好きなビールを飲みまくり、3ヶ月でベスト体重より4キロも増えてしまったのでした。 ところで、何より嬉しかったのはバスケを通してたくさん選手と知り合え、バスケを超えて色々な話が出来たことです。それは間違いなく自分の中で大きな財産となっています。必ずまた巡業の旅に出ますので、その節はみなさんよろしくお願いいたします。

 話は反れましたが、移籍に交渉が本格的に始まったのは、前回の体験記に書いた、5月末にダラスであった3on3大会の時からでした。この旅の間に、以前から話があったシャーロットのメンバー数人と移籍希望者とで密会をしたのです。ここにはJが尊敬するデビッド・カイリー選手が居るのですが、彼は身体の調子が悪く来期はプレーできない可能性があることを伝えられました。また、思うようにリクルートも上手くいっていないため、下手をするとD2降格の選択を余儀なくされるとの話もあったのです。そこで、Jは危機感を感じ、シャーロットとの話を続けながらも他のチーム状況についても探りを入れ始めたのです。また、この旅に同行した、千葉の安選手もアメリカ行きを目指していたため、彼のプレー先を見つけるためにも手当たり次第の選手や関係者に接触しました。そして、Jを必要としてくれて尚且つ上位を目指せそうなチームとして候補に上がったのが、デンバーとテネシーの2チームでした。Jはシャーロットを含む、この3チームと平行して話を進めました。

 それと、こぼれ話を一つ。実はD2に降格したシャーロットがリクルートをしていた目玉選手にカナダのエース、パトリック・アンダーソン選手がいました。もちろん何処のチームも彼を欲しいわけですが、その彼がシャーロットを断るために書いてきたメールが非常に興味深かったのです。(このメールは当時シャーロットの一員としてJにも送られてきました) 普段クールでもの静かな彼が、バスケに対する思いを延々と書いている長いメールには、とても誠実に彼の気持ちが書かれていました。特に興味深かったのは彼や友人でカナダ代表のジョーイ・ジョンソン選手をNBAの選手に例えたエピソードが面白かった。彼のバスケに対する深い思いが良く伝わってきました。その後、彼にメールで来期のプレー先を尋ねたところ、ミシガンで彼の親しい選手を集めた新チームを結成したとのことですが、それも彼らしい選択のような気がします。

 8月上旬、コロラドから一通のエアメールが届きました。これはJが最も必要としていたチームからの招待状です。これがないと、米国にVISAを行使しての長期滞在をすることが出来ないのです。この瞬間Jの心は決まりました。そして、8月下旬のGCで来日していたマーク選手と会うことが出来たのです。しかーし、ここに大きな落とし穴?が待っていたのでした。彼との話の中で彼は幾度となく「9月下旬のチームキャンプに参加しなければJの移籍はないと思う」と言ってきたのです。もちろんキャンプは当初から参加するつもりでいたので、はじめは普通に受け取っていたのですが、どうも彼の言い方が不自然なのです。少し心配になったJは「それはただのキャンプか?あるいは、トライアウト(テスト)にあたるものか?」と尋ねました。すると彼は少々困った顔をして「トライアウトにもなっているが、チームはJを必要としていると思うよ」と言ったのです。その「思うよ」って言うのは何さ! この時Jはイヤーな予感がしたのです。結局Jはデンバーにとって絶対に必要な選手ではなく、テストで篩い(ふるい)に掛けられる選手達の一人なのだと。

 自慢ではないが、今まで3度のパラと多数の国際大会を経験してきました。それに加え米国で2シーズンプレーした実績もある。しかし、それにも関わらずやっぱりトライアウト(テスト)かい! しかも32歳、ベテランと言われる選手になっても・・・・・・。正言って悔しい思いと、万が一落とされたときの不安感や悲壮感が同時に込み上げてきた。やっぱりD1の敷居は高いなー(またはJの実力が低いだけ?)と、思いつつ、「それしか方法がないならやるしかないかー」と、独り言を言いながら腹を決めて渡米の日を待ったのでした。

後編に続く いよいよJの季節=米国のバスケットボールシーズンがやって参りました! 一時は日本に完全帰国も考えていたのですが、やはり終わりにすることはできず、再びアメリカにやって来ました。しかし、日本に戻っていた半年の間にも想像し得なかった出来事が多々あり、とても楽しく充実した生活を送ることができたのです。そこで今回は、まずオフの間に日本で起こった様々な出来事を絡めて、移籍までの道のりを紹介したいと思います。また、果たしてこの話の最後に、Jは再びアメリカでプレーするチャンスを手にできたのか?!?!

 まず、昨シーズンレイクショアでD1昇格を果たしましたが結果は惨敗。シーズン後半にその原因について、ボスのスコットと話し合いましたが、彼いわく「レイクショアは財団の一プログラムとしてチームを運営しているので、他のD1チームのようにお金で選手を引き抜くことはできない」との答えが返って来たのです。そして、「田舎のクラブチームとして出来るのは、やはりD2が限界かも・・・」と。 話は良く理解できました。が、Jは全てを掛けてアメリカまで来ているわけで、勝つこと、常に上を目指すチームであること、そして何よりD1でなければ意味がないことを説明して、先シーズン限りでチームから去ることを伝えました。

 2002年3月末に一時帰国したあとは、シーズン途中で悪くした腰と肘の療養も兼ねて、しばらくゆっくりしておりました。良く言えば「療養生活」、悪く言えば「プー太郎生活」の期間です。(笑) そして、風呂屋のキャプテンである哲さんにお世話になりながら、風呂屋での活動を展開したのです。そんなある日、オーエックスの本社で営業部長のO氏と色々な話をする機会があり、再びアメリカに戻りたいという、Jの我がままを許してもらえるのであれば、是非オーエックスで働きたいという話になったのです。社内会議の結果?晴れてオーエックスの社員に迎えていただくことになり、3ヶ月に及んだ長いプー太・・・、いや療養生活にも終止符を打つことになったのです。

 入社数日後に社長より命ぜられた仕事は、「とりあえず九州を回ってこい!」でした。それから数日後には九州へと向かったのでした。また、それ以降も南は九州の熊本から北は北海道の旭川まで全国のチーム練習の会場に営業を兼ねて寄らせていただきました。はっきりと覚えてないんですが、全国約25ヶ所で延べ300人くらいの選手と一緒に練習をさせていただきました。その際どこに行っても大変親切にしていただき、そのほとんどが、練習後にチームの皆さんと夕飯(飲み会?)をご一緒させていただいたのでした。中には自宅に泊めていただき、朝まで飲みながらバスケの話で盛り上がったことも度々あり、「何とも楽しくて充実した仕事を得られたものだ!」と思ったものです。しかし、そのお陰で毎日のように大好きなビールを飲みまくり、3ヶ月でベスト体重より4キロも増えてしまったのでした。 ところで、何より嬉しかったのはバスケを通してたくさん選手と知り合え、バスケを超えて色々な話が出来たことです。それは間違いなく自分の中で大きな財産となっています。必ずまた巡業の旅に出ますので、その節はみなさんよろしくお願いいたします。

 話は反れましたが、移籍に交渉が本格的に始まったのは、前回の体験記に書いた、5月末にダラスであった3on3大会の時からでした。この旅の間に、以前から話があったシャーロットのメンバー数人と移籍希望者とで密会をしたのです。ここにはJが尊敬するデビッド・カイリー選手が居るのですが、彼は身体の調子が悪く来期はプレーできない可能性があることを伝えられました。また、思うようにリクルートも上手くいっていないため、下手をするとD2降格の選択を余儀なくされるとの話もあったのです。そこで、Jは危機感を感じ、シャーロットとの話を続けながらも他のチーム状況についても探りを入れ始めたのです。また、この旅に同行した、千葉の安選手もアメリカ行きを目指していたため、彼のプレー先を見つけるためにも手当たり次第の選手や関係者に接触しました。そして、Jを必要としてくれて尚且つ上位を目指せそうなチームとして候補に上がったのが、デンバーとテネシーの2チームでした。Jはシャーロットを含む、この3チームと平行して話を進めました。

 それと、こぼれ話を一つ。実はD2に降格したシャーロットがリクルートをしていた目玉選手にカナダのエース、パトリック・アンダーソン選手がいました。もちろん何処のチームも彼を欲しいわけですが、その彼がシャーロットを断るために書いてきたメールが非常に興味深かったのです。(このメールは当時シャーロットの一員としてJにも送られてきました) 普段クールでもの静かな彼が、バスケに対する思いを延々と書いている長いメールには、とても誠実に彼の気持ちが書かれていました。特に興味深かったのは彼や友人でカナダ代表のジョーイ・ジョンソン選手をNBAの選手に例えたエピソードが面白かった。彼のバスケに対する深い思いが良く伝わってきました。その後、彼にメールで来期のプレー先を尋ねたところ、ミシガンで彼の親しい選手を集めた新チームを結成したとのことですが、それも彼らしい選択のような気がします。

 8月上旬、コロラドから一通のエアメールが届きました。これはJが最も必要としていたチームからの招待状です。これがないと、米国にVISAを行使しての長期滞在をすることが出来ないのです。この瞬間Jの心は決まりました。そして、8月下旬のGCで来日していたマーク選手と会うことが出来たのです。しかーし、ここに大きな落とし穴?が待っていたのでした。彼との話の中で彼は幾度となく「9月下旬のチームキャンプに参加しなければJの移籍はないと思う」と言ってきたのです。もちろんキャンプは当初から参加するつもりでいたので、はじめは普通に受け取っていたのですが、どうも彼の言い方が不自然なのです。少し心配になったJは「それはただのキャンプか?あるいは、トライアウト(テスト)にあたるものか?」と尋ねました。すると彼は少々困った顔をして「トライアウトにもなっているが、チームはJを必要としていると思うよ」と言ったのです。その「思うよ」って言うのは何さ! この時Jはイヤーな予感がしたのです。結局Jはデンバーにとって絶対に必要な選手ではなく、テストで篩い(ふるい)に掛けられる選手達の一人なのだと。

 自慢ではないが、今まで3度のパラと多数の国際大会を経験してきました。それに加え米国で2シーズンプレーした実績もある。しかし、それにも関わらずやっぱりトライアウト(テスト)かい! しかも32歳、ベテランと言われる選手になっても・・・・・・。正言って悔しい思いと、万が一落とされたときの不安感や悲壮感が同時に込み上げてきた。やっぱりD1の敷居は高いなー(またはJの実力が低いだけ?)と、思いつつ、「それしか方法がないならやるしかないかー」と、独り言を言いながら腹を決めて渡米の日を待ったのでした。

後編に続く


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